人口減少ってイイじゃないですか
文化的生活なんて、江戸時代で十分だし
夜中にコンビニに行く生活って、文化的行為なのかと思う
そりゃ、官僚や役人、公務員にとっちゃ今の自分の生活が大事だから
自己中心に考えりゃぁ、人口が減って公務員の職場が縮小したんじゃ困るんだろうけど
長い目で見たら、自分の子孫が困ることなんじゃぁないの?
それとも、官僚、公務員達って、
自分の身分は子々孫々受け継がれて安泰だと思っているのかね?
最終的に、自国で生産できる食料以上の人間は「飢え死に」するんじゃないか
自国どころか、地方や都市部でも地域内の水、食料でさえ確保出来ないんじゃない
実際に戦中戦後の東京では、食料を求めて買いだしに行った、
たった60年前の話しだ。
町単位で居住人口の水食料さえ確保出来て無いんだから困ったもんだ
さらに1000万人の奴隷移民まで考え、実行しようとする資本家の手先、亡国政治屋なんざ
チャウセスクのような末路が待ってるんだろうな
ルーマニア革命 (1989年)
発端
1989年12月16日 - ルーマニア西部の都市ティミショアラで民衆によるデモが発生。治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る(しかし、後になって、近所の病院の死体置き場から盗まれた遺体が現場に転がされていた、と言う噂が広まった)。
* このデモは人権活動家でハンガリー改革派教会の牧師テケーシュ・ラースロー(ラースロー・テケーシュ)への国外退去処分に対するマジャル人(ハンガリー人)による抗議デモであった。
* ティミショアラを含むルーマニア西部(バナート地方)はハンガリー国境に近く、1919年のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊するまでハンガリー王国の領域であった。ルーマニアに留まったハンガリー系住民に対する政府の扱いは、あまり良いとは言えず、マジャル人であるラースローの国外退去処分への抗議とともに待遇改善を求めてデモを起こしたのであった。
[編集] 勃発
12月21日 - 首都ブカレストで官製集会の最中に爆発事件が発生する。
* ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会が開催された。チャウシェスクの演説が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾を2つ爆発させた(実行犯は警察により射殺)。(または10代の若者2人が爆竹を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い。)広場はパニック状態に陥り、集会は強制的に解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送(国営放送)で生中継されていたが、チャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見て、たじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された。(その後、放送は再開された。)
* 集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかし、この政治集会に対しても治安部隊が発砲、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが市民のチャウシェスク政権に対する不満は頂点に達した。
* この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防大臣ワシーリ・ミリャに対し軍隊による群集への発砲を指示した。しかしミリャはこの命令を拒否、チャウシェスクの逆鱗に触れ即日処刑された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防大臣が自殺した」と報じたが事実はすぐ市民に知れ渡り、この事態は軍首脳が大統領に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(ルーマニア共産党本部等)の占拠が始まった。
[編集] 崩壊
12月22日 - 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及び、チャウシェスクはブカレストから脱出し政権は崩壊、反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織し、テレビ、ラジオ局を掌握した。これにより「国営ルーマニア放送」から「自由ルーマニア放送」と改称される。
* チャウシェスクは非常事態宣言を出し事態に対応しようと試みるが、軍隊が革命勢力に参加したことで頓挫、妻のエレナと共にヘリコプターでの脱出を図った。しかし、一連の逃亡劇は反体制側に転じた自由ルーマニア放送他、世界各国のマスメディアで映像が流されるお粗末なものであった。その後、首相のコンスタンティン・ダスカレスクは辞任、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権時に政権批判をし投獄されていた政治犯も釈放された。その後、夜になると、ブカレスト市内各地で反体制派の軍隊と大統領派の治安警察による激しい銃撃戦(市街戦)が発生。多数の死傷者が出る。
12月23日 - 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用し国軍、市民への発砲を続ける。救国戦線評議会は発砲してくる大統領派を「テロリスト」と呼び市民に協力を要請、大統領派の掃討に出る。また市民も銃をとり大統領派に応戦する。混乱の為、情報が錯綜する中、ハンガリーから軍の派遣要請の連絡を受けるがこれを拒否。また、ソ連(ソ連軍)が事態の沈静化の為に介入するが、これも拒否する。そして救国戦線(国軍)によりチャウシェスク夫妻が逮捕され、午後6時、自由ルーマニア放送(テレビ)で報道された。
12月24日 - ブカレスト市内の市街戦は依然として続く。また、大統領派の逮捕も相次いでいく。
12月25日 - チャウシェスク夫妻は特別軍事法廷で大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行された。
* チャウシェスク夫妻が拘禁されていた軍事基地で秘密警察によるチャウシェスク奪回作戦が敢行され、激しい銃撃戦が展開された。当初は軍事裁判ではなく通常裁判を実施する予定であったが、秘密警察の抵抗でチャウシェスク夫妻の扱いを早急に結論付けなければならなくなった。
* チャウシェスク生存説が流布される事を恐れた救国戦線は、チャウシェスク夫妻の遺体を各国メディアに公開した。
12月26日 - 救国戦線評議会、新指導体制を発表。暫定政権樹立。同日、チャウシェスク夫妻の処刑が発表される。これを機に大統領派の抵抗も終息していく。
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